機能停止の解剖学:アサヒへのサイバー攻撃は、いかにして日本の飲料業界全体に波紋を広げたか
- インシデント・リサーチチーム
- 10月27日
- 読了時間: 23分
序論:ビールが流れを止めた日
2025年9月29日、日本の巨大企業アサヒグループホールディングス(以下、アサヒ)の最先端工場は沈黙し、物流拠点ではペンと紙による frantic な作業への切り替えが始まった。この出来事は単なる技術的な不具合ではなかった。それは、企業のデジタル神経中枢が切断され、巨大組織が麻痺した瞬間であった 1。このインシデントは、デジタル効率化の絶え間ない追求が、いかにして新たな、そして深刻なシステム的脆弱性を生み出したかを浮き彫りにした。
本稿では、アサヒへの一回のサイバー攻撃から始まった連鎖的な機能不全を徹底的に分析する。この事例は、グローバル企業にとって極めて重要なケーススタディとなる。それは、高度に接続された現代社会において、企業の最大の戦略的資産である統合デジタルインフラが、同時に最も壊滅的な単一障害点(Single Point of Failure)にもなり得ることを明らかにしたからだ。本稿では、即座に発生した事業運営の崩壊、競合他社やサプライチェーン全体に及んだ「伝染」、そしてこの危機が21世紀の事業継続性にもたらす重大な教訓について深く掘り下げていく。
第1章:最初の侵害:「Qilin」ランサムウェア攻撃の解明
このセクションでは、攻撃の「何が」「どのように」行われたかを明らかにし、その後の影響分析の事実的基盤を構築する。
攻撃のタイムライン
2025年9月29日(午前):アサヒは社内システムに異常を検知。データ保護を最優先し、影響を受けたシステムの遮断という重大な決断を下した。この即時の防御措置は被害拡大を防いだものの、結果的に全面的な事業停止の引き金となった 4。
9月29日~10月3日:緊急事態対策本部が設置される。当初の公式発表ではサイバー攻撃の事実は認められたが、その性質については明らかにされなかった。この間に、受注、出荷、生産を含む事業全体の麻痺状態が明白になった 7。
10月3日:アサヒは、攻撃がランサムウェアによるものであることを公式に認めた。さらに重要なことに、「情報漏えいの可能性を示す痕跡」が確認されたと発表。これにより、危機は事業運営上の問題から、潜在的なデータ漏洩事件へとエスカレートした 7。
10月7日:サイバー犯罪集団「Qilin(麒麟)」がダークウェブ上で犯行声明を発表し、「二重恐喝」戦略を実行していることを明らかにした 5。
攻撃者とその手口:「二重恐喝」
Qilinへの帰属:犯行声明を出したQilinは、製造業や医療機関を標的とすることで知られるロシア語話者のグループであるとされている 5。
二重の脅威:彼らが用いた「二重恐喝(Double Extortion)」という手口は、明確なビジネス上の圧力をかけるために設計されている。
事業運営の麻痺(ランサムウェア):データとシステムを暗号化し、使用不能にすることで、あらゆる事業活動を停止させる。身代金は、この暗号化を解除する「復号キー」と引き換えに要求される 4。
風評被害を狙った脅迫(データ漏洩):暗号化の前に、攻撃者は機密データを外部に窃取(Exfiltration)する。そして、身代金が支払われない場合、このデータを公開すると脅迫する。Qilinは、財務記録、契約書、従業員の個人情報(IDカードの画像など)を含む9,300以上のファイル(約27GB相当)を盗んだと主張し、その証拠としてサンプル画像をオンラインで公開した 5。
この攻撃手法の選択は、単なる技術的な攻撃ではなく、企業の弱点を深く理解した上での戦略的なものであった。攻撃者は、アサヒのような上場企業にとって、機密性の高い財務データ、従業員の個人情報、そして事業計画が漏洩する脅威が、事業停止そのものと同等か、それ以上に深刻なダメージを与えることを熟知していた 12。この手口は、事業、財務、法務、広報の各方面で同時に危機的状況を作り出し、経営陣に迅速な身代金の支払いを最も損害の少ない選択肢だと思わせるように設計されている。単純なランサムウェア攻撃であれば、その損害は逸失利益や復旧費用としてある程度計算可能である。しかし、データ漏洩の脅威が加わることで、規制当局からの罰金(個人情報保護法など)、消費者や取引先からの信頼失墜、訴訟リスク、そしてブランド価値の毀損といった、計算が困難で長期にわたる損害が発生する可能性が生まれる 2。Qilinはアサヒのサーバーを攻撃しただけでなく、株価、法的地位、そして全ての従業員、顧客、パートナーとの関係性そのものを人質に取ったのである。これにより、意思決定のプロセスは、単なる技術的なコスト分析から、どの選択肢を選んでも甚大なリスクを伴う複雑な危機管理シナリオへと変貌した。
表1:アサヒへのサイバー攻撃と初期対応のタイムライン
日付 | 主要な出来事 | 公式発表/情報源 | 重要性 |
2025年9月29日 | サイバー攻撃を検知。被害拡大防止のためシステムを遮断。 | アサヒグループHD発表 4 | 全面的な事業停止の開始。 |
2025年10月1日-2日 | 国内の受注・出荷・生産業務の停止が継続していることが報道される。 | FNNプライムオンライン 3 | 被害の深刻さと広範囲な影響が公になる。 |
2025年10月3日 | 攻撃がランサムウェアによるものであること、および情報漏洩の可能性を示す痕跡を確認したことを公式発表。 | アサヒグループHD発表 7 | 危機が事業停止からデータ漏洩へと拡大。 |
2025年10月6日-7日 | ビール全6工場での製造再開。手作業での出荷を順次開始。 | アサヒビール発表 14 | 限定的ながらも事業再開に向けた動きが始まる。 |
2025年10月7日 | ハッカー集団「Qilin」がダークウェブ上で犯行声明を発表。 | S&J、FNNプライムオンライン 9 | 攻撃者の特定と「二重恐喝」の手口が判明。 |
2025年10月14日 | 2025年12月期第3四半期決算発表の延期を公式に発表。 | アサヒグループHD発表 16 | 経理関連データへのアクセス障害により、財務への深刻な影響が確定。 |
第2章:グラウンド・ゼロ:アサヒ国内事業の完全麻痺
このセクションでは、アサヒ内部で発生した混乱を詳述し、高度に統合されたデジタルシステムがいかにして全面的な事業崩壊につながったかを明らかにする。
デジタルな背骨の断裂:システムのシャットダウン
麻痺の中核にあったのは、基幹システムである受注・出荷管理システム「SPIRIT」の停止であった。このシステムは、営業、在庫、生産、配送を結ぶ神経中枢そのものであった 2。システムの停止は単一の機能に留まらず、受注・出荷業務、お客様相談室などのコールセンター業務、さらには社外との電子メールの一部機能といった、国内の主要な業務プロセス全てに及ぶ、まさに全身麻痺の状態を引き起こした 1。
自動化から時代錯誤へ:手作業への回帰
デジタルシステムがオフラインになったことで、アサヒは受注や出荷管理を「手作業」という紙ベースのプロセスに頼らざるを得なくなった 2。これは、壊滅的な効率の低下を意味した。処理能力は急落し、膨大なバックログが発生。注文をタイムリーかつ正確に処理することは不可能になった。1日に何十万ものデジタル取引を処理するように設計されたオペレーションが、電話とFAXの速度にまで後退したのである 2。
沈黙する工場:物流と生産の決定的な連鎖
ここで分析すべき極めて重要な点は、工場が停止したのは、工場自体が直接攻撃されたからではない、ということだ。工場が停止したのは、「何を」「どれだけ」生産し、「どこへ」出荷すべきかを指示する物流システムが機能しなくなったからである 1。完成品を倉庫から搬出できなければ、生産ラインはあっという間に在庫であふれかえってしまう。これは、ジャストインタイム(JIT)方式の製造環境における緊密な連携がいかに重要であるかを示している。出荷が不可能になれば、生産停止は避けられない 1。10月2日から9日にかけてビール全6工場での製造が公式に再開されたものの、これは手作業による出荷というボトルネックによって、大幅に制限された稼働率であったと推測される 14。
この事態は、アサヒの事業継続計画(BCP)に重大な欠陥があったことを示唆している。「手作業への回帰」は、実行可能な代替計画ではなく、中核となる物流機能に対する適切なデジタルバックアップや冗長化システムが存在しなかったことの証左である。このことから、アサヒのBCPは、データセンターが物理的に損傷する地震のような災害は想定していたかもしれないが、デジタルインフラ全体が使用不能になるというシナリオを想定していなかった可能性が浮かび上がる。代替策とされた「プランB」はあまりに非効率的で、計画が存在しないに等しい状態であった。現代の大規模物流オペレーションは、その効率性を秒単位の自動化された意思決定で計測する、大容量かつ高速なシステムである。一方、電話、FAX、紙といった手作業のプロセスは、それより桁違いに遅く、エラーも発生しやすい 18。アサヒがこのような原始的なシステムに頼らざるを得なかったという事実は、リスク評価における致命的な失敗を示している。彼らは非常に効率的な「プランA」を構築したが、求められる規模のほんの一部さえも処理できない、脆弱な「プランB」しか用意していなかった。これは、デジタルトランスフォーメーション(DX)における典型的な落とし穴を露呈している。企業は主要なデジタルワークフローの最適化に巨額の投資を行う一方で、堅牢で拡張性のあるフェイルオーバーシステムの構築と定期的なテストを怠りがちであり、結果として「脆い傑作」を生み出してしまうのである 20。
第3章:伝染:サプライチェーンとビール業界を駆け巡った衝撃波
このセクションは、「波及状況」分析の中核であり、アサヒから業界エコシステム全体へと広がっていった波紋を追跡する。
競合他社へのドミノ効果:需要の急増と供給の逼迫
アサヒ製品がサプライチェーンから姿を消したことで、キリン、サッポロ、サントリーといった主要な競合他社に、突発的かつ大規模な注文が殺到した 6。これは単なる売上増ではなく、各社が緻密に調整していたサプライチェーンでは対応しきれないほどの「需要ショック」であった 22。その結果、これらの企業もまた、既存の顧客への供給を守り、自社のシステムがパンクするのを防ぐため、一部商品で「出荷制限」を実施せざるを得なくなった 15。
ギフトシーズンの混乱:最重要商戦期の麻痺
攻撃のタイミングは、年末の重要な贈答品シーズンである「お歳暮」商戦の直前という、特に損害の大きい時期と重なった。
アサヒ:お歳暮ギフトの全ラインナップを、わずか3つの「スーパードライ」関連商品に限定せざるを得なくなった 21。
サントリー&サッポロ:アサヒからの需要シフトによる想定外の注文増に対応するため、通常商品の安定供給を優先し、「ザ・プレミアム・モルツ」のギフトセットや「ヱビスビール」の缶セットなど、自社の人気ギフト商品の販売中止や休止を余儀なくされた 21。
キリン:即座の商品休止は決定しなかったものの、「需給状況を注視する」と表明しており、業界全体が緊張状態にあったことを示している 21。
空の棚と止まったタップ:小売・外食産業への影響
小売:コンビニエンスストアやスーパーマーケットは、即座に品薄に直面した。影響はアサヒブランドだけでなく、ファミリーマート向けの一部飲料のように、アサヒが製造を請け負っていたプライベートブランド商品にも及んだ 23。
飲食店:「スーパードライ」や「マルエフ」といった樽生ビールなど、アサヒ製品に大きく依存していた店舗は、主力商品の供給が途絶えるという事態に陥った。ある飲食店の経営者は、70年以上にわたる取引関係があるにもかかわらず、主力商品が完全に在庫切れになったと報告している 12。
文化的影響:この混乱は、プロ野球チームの優勝時に恒例となっていた「ビールかけ」の実施を危うくするなど、文化的なイベントにまで影響を及ぼした 11。
この一連の事態は、アサヒの競合他社が単純に余剰需要を吸収できなかったという事実を通じて、日本の飲料業界全体のサプライチェーンに「弾力性」が欠如していることを露呈した。業界全体が、余剰能力をほとんど持たない、高度に最適化されたジャストインタイムモデルで運営されていることが明らかになったのである。このような超効率的なシステムは、一つの大きな衝撃に対して全体が脆弱になる。業界最大手が機能不全に陥ったとき、他社は単に市場シェアを奪うだけでなく、自社のサプライチェーンが破綻するリスクに直面したのだ。弾力性の高いシステムであれば、競合他社は生産と出荷を増やし、アサヒの逸失売上を取り込むことができたはずである。しかし、実際には自社製品の供給を制限せざるを得なかった 15。これは、各社の生産・物流計画が数ヶ月前から緻密に組まれており、予期せぬ需要の急増に対応する余力(バッファ)がほとんどなかったことを意味する。したがって、この「伝染」はアサヒ一社の失敗だけでなく、業界全体がサプライチェーンの強靭性よりもリーンなオペレーションによるコスト削減を優先してきた結果の表れであったと言える。
表2:日本の大手ビールメーカーへの比較影響
メーカー | 直接的な攻撃の影響 | 講じた措置 | 影響を受けた商品(例) | 情報源 |
アサヒビール | 受注・出荷システムが全面停止。生産も一時停止。 | 手作業での受注・出荷に切り替え。お歳暮ギフトを3品目に限定。 | 「スーパードライ」など全般、お歳暮ギフト各種 | 15 |
キリンビール | アサヒからの需要増による受注急増。 | 出荷制限を調整。需給状況を注視。 | 飲食店向けビールなど | 15 |
サッポロビール | 想定を超える注文増。 | 出荷制限を実施。お歳暮ギフト10商品の販売を中止。 | 「ヱビスビール缶セット」など | 15 |
サントリー | 想定を超える注文増。 | 出荷調整を実施。お歳暮ギフトの一部を販売休止。 | 「ザ・プレミアム・モルツ 干支デザインセット」など | 15 |
第4章:損害の定量化:財務的影響と信用の危機
このセクションでは、遅延した財務報告から信頼の失墜に至るまで、攻撃がもたらした有形・無形のコストを分析する。
財務のブラックボックス:決算発表の延期と不透明なコスト
直接的かつ深刻な影響の一つが、アサヒの2025年12月期第3四半期決算発表の無期限延期であった 16。同社はその理由を「経理関連データへのアクセス障害」と説明しており、これは財務的損害を計算するために必要なシステム自体が侵害されたことを意味していた 16。
推定コスト:公式な数値はまだ発表されていないが、コストは多岐にわたる。
逸失収益:数週間にわたる主力商品の販売機会の喪失 2。
復旧コスト:外部のサイバーセキュリティ専門家への報酬、システムの再構築費用、手作業に伴う人件費など 7。
補償コスト:事業中断によって損害を被った流通業者や取引先からの損害賠償請求の可能性 2。
身代金:アサヒが身代金を支払ったかどうかは不明だが、これも潜在的なコストの一つである 4。
あるアナリストは、3ヶ月間の事業中断が国内営業利益を四半期で80億~100億円押し下げる可能性があると試算している 18。
信頼の欠如:パートナーと消費者からの信用の失墜
サプライチェーン・パートナー:卸売業者、小売業者、飲食店にとって、供給の信頼性は最優先事項である。このインシデントは、安定的で信頼できるパートナーとしてのアサヒのイメージを根底から覆した。競合他社への切り替えを余儀なくされたパートナーは、再発を恐れてアサヒ製品への再切り替えをためらう可能性がある 6。
データ漏洩への懸念:従業員や取引先のデータを含む可能性のある情報漏洩が確認されたことは、長期的な信頼問題を生み出す。これにより、アサヒは法的な責任を問われる可能性が生じ、情報を安全に管理する企業としての評判が損なわれた 7。
消費者への影響:個々の消費者は寛容かもしれないが、広範囲にわたる品薄、期待されていた新商品の発売延期 13、そしてイベントの中止 8 は、ブランドの存在感を低下させ、競合他社が消費者を獲得する機会を生み出した。
決算発表の延期は、単なる手続き上の遅れ以上の意味を持つ。これは、アサヒの財務システムと業務システムが危険なほど密接に連携していたことを示す強力な兆候である。エンタープライズアーキテクチャのベストプラクティスでは、重要な財務報告システムを、物流システムのような変動の激しい業務システムから分離する「セグメンテーション」が求められる。両者が同時に機能不全に陥ったという事実は、セキュリティや強靭性よりもデータ統合を優先したモノリシック(一枚岩)なシステムアーキテクチャの存在を示唆している。企業の物流システム(SPIRIT)とERP/財務システムは連携する必要があるが、同じ障害ドメインに属するべきではない。理想的な設計であれば、物流ネットワークへの攻撃が、CFOのオフィスが財務データにアクセスすることを妨げることはないはずだ 20。アサヒが発表延期の理由を「経理関連データへのアクセス障害」としたことは 16、この分離が不十分であったことを強く示唆している。これは、リスクが攻撃そのものにあっただけでなく、シームレスなデータ連携を優先するあまり、堅牢なセグメンテーションを犠牲にしたDX戦略によって生み出された、既存のアーキテクチャ上の脆弱性にあったことを明らかにしている。
第5章:深層分析:デジタルトランスフォーメーションとシステミックリスクのパラドックス
このセクションでは、事実の報告から一歩進み、アサヒの事例を用いて企業リスクというより広範なテーマを探求する戦略的分析を行う。
効率性と強靭性のトレードオフ:DXという両刃の剣
アサヒ自身の戦略文書は、DX、データ駆動型プロセス、そして生産性向上のための統合された「グローカル」なデータ基盤の構築に重点を置いていることを示している 28。この戦略は、サプライチェーンを最適化し、事業効率を高めることを目的としている。しかし、今回のサイバー攻撃は、この統合の負の側面を露呈した。高度に最適化され、相互接続された国内システムを構築することで、アサヒは同時に巨大な単一障害点を作り出してしまった。この中央ハブが侵害されたとき、国内の事業ネットワーク全体が崩壊したのである 20。
この構造的欠陥を最も雄弁に物語るのは、アサヒのヨーロッパ、オセアニア、東南アジアといった海外事業が全く影響を受けなかったという事実である 1。これは、海外のシステムが日本の国内ネットワークから十分に分離されていたことを証明している。被害が意図的に封じ込められたこの事実は、国内システムのアーキテクチャに根本的な欠陥があったことを浮き彫りにした。
世界的なパターン:これは孤立した事件ではない
この問題は日本特有のものではない。これは業界全体のシステミックリスクであることを示すため、他のグローバル飲料大手で発生した同様の攻撃との直接的な比較を行う。
モルソン・クアーズ(2021年):サイバー攻撃により生産と出荷に深刻な支障が生じ、北米および英国の事業に影響が及んだ 34。
ライオン(オーストラリア、2020年):ランサムウェア攻撃によりビールと乳製品の生産が停止し、手作業のプロセスへの回帰を余儀なくされ、大幅な配送遅延が発生した 34。
これらの事例は、食品・飲料業界において、サイバー攻撃が単なるITリスクではなく、複雑で時間に制約のあるサプライチェーンに依存するため、事業停止を引き起こす本質的な脆弱性を抱えていることを示している。
このインシデントは、アサヒのDX戦略全体に対する強制的な監査として機能する。それは、DXの成功を測る指標を根本的に見直すことを要求している。従来のKPIは、効率性の向上、コスト削減、データ統合に焦点を当ててきた。しかし、アサヒの事例は、「強靭性(Resilience)」、すなわち壊滅的な障害に耐え、そこから回復する能力が、新たな、そして極めて重要なKPIでなければならないことを痛烈に示している。効率性を高める一方で、事業存続を脅かす単一障害点を生み出すDX戦略は、成功した戦略ではなく、失敗した戦略である。攻撃前の戦略文書では、システム統合と自動化による目覚ましい成果が謳われていただろう 29。しかし、今回の攻撃は、その戦略によって蓄積された隠れた「リスク負債」を白日の下に晒した。この一回のインシデントによるコストは、おそらく数年分の効率化による利益を帳消しにするだろう。したがって、あらゆるDXイニシアチブの投資対効果(ROI)の計算式は再構築されなければならない。それは、システムが完全に停止した場合の潜在的コストを、その発生確率で割り引いて含める必要がある。これにより、戦略的な議論の焦点は、「いかにしてシステムをより統合的かつ効率的にするか」から、「いかにして効率的でありながら、同時にセグメント化され、冗長性を持ち、強靭なシステムを構築するか」へと移行しなければならない 20。
第6章:危機からの教訓:より強靭な未来への青写真
最終セクションでは、これまでの分析に基づき、実行可能で未来志向の提言を行う。
アサヒにとっての回復への道
技術的な再設計:当面の優先事項は、単なる復旧ではなく、強靭性を念頭に置いた再構築である。これは、システムのセグメンテーションを強化し(物流と財務、国内と海外を分離するなど)、堅牢でテスト済みのバックアップシステムを構築し、有事の際に事業量の相当な割合を処理できる代替の事業運営モードを設計することを意味する 20。
透明性と信頼の再構築:ブランドの評判回復は、侵害の事実、修正措置、そして再発防止策について、パートナーや社会に対して透明性の高いコミュニケーションを行うかにかかっている。
パートナーの信頼回復:新たなサービスレベル合意(SLA)の締結、主要な流通業者との共同リスク評価、そして根本的により強靭になったサプライチェーンの実証などが求められるだろう。
飲料・消費財業界への警鐘
サプライチェーンの相互依存性の再評価:今回の伝染効果は、一社の主要企業へのリスクが業界全体のリスクであることを示している。これは、業界レベルでのサプライチェーンの強靭性に関する議論や、脅威情報の共有といった協調体制の必要性を示唆している。
DXに潜むリスクの監査:業界の全ての企業は、アサヒのインシデントを、自社のデジタルインフラに潜む単一障害点や不十分なBCPを監査するための、無料だが恐ろしいケーススタディとして捉えるべきである 35。
全ての経営幹部へ:事業の中核機能としてのサイバーセキュリティ
IT部門を超えた課題:アサヒの事例は、サイバーセキュリティがIT部門の問題ではなく、企業リスク管理(ERM)と事業継続計画(BCP)の根幹をなすものであることを究極的に証明した。CSO/CISOは、システムアーキテクチャやDXに関する戦略的意思決定において、発言権を持たなければならない 17。
サイバーシナリオの机上演習:BCPは、長期間にわたるサイバー攻撃による事業停止という具体的なシナリオを含むように更新されなければならない。これらの計画は、単なる書類上のものではなく、代替プロセス(手作業を含む)への移行をシミュレートする実地訓練を通じて定期的にテストされ、その真の能力と限界点を把握する必要がある。
新たなバランス:最終的な教訓は、効率化への絶え間ない追求と、強靭性という戦略的要請との間で、より慎重な新しいバランスを見出す必要性である。サイバー脅威が常態化した時代において、デジタルシステムが停止した際に事業を継続する能力は、もはや二次的な懸念事項ではない。それは、企業の存続と長期的価値を決定づける第一の要因なのである 17。
引用文献
アサヒグループHDがサイバー攻撃により国内供給停止!?事態の全容と今後の影響を解説!, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.sms-datatech.co.jp/securitynow/articles/blog/sec_asahighd/
【10月21日更新】アサヒグループホールディングスのサイバー攻撃被害:ランサムウェア攻撃の全貌と影響を徹底解説, 10月 25, 2025にアクセス、 https://cybersecurity-info.com/column/agh-insident-response/
アサヒグループHDのシステム障害3日目に 復旧の見通し立たず…共同配送の遅延や飲食店の在庫不足に波及 - FNNプライムオンライン, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.fnn.jp/articles/-/939222
アサヒグループホールディングスへのサイバー攻撃についてまとめてみた - piyolog, 10月 25, 2025にアクセス、 https://piyolog.hatenadiary.jp/entry/2025/10/04/023247
【アサヒHD、サイバー攻撃】最新情報 ハッカー集団の関与、国内の影響など - 株式会社アクト, 10月 25, 2025にアクセス、 https://act1.co.jp/2025_10_10-1/
アサヒグループへのサイバー攻撃でビールが飲めなくなった。その多大なる影響と今後, 10月 25, 2025にアクセス、 https://orangeshare.jp/5222
サイバー攻撃によるシステム障害発生について(第2報) - アサヒグループホールディングス, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahigroup-holdings.com/newsroom/detail/20251003-0104.html
アサヒグループホールディングスにランサムウェア攻撃、情報漏えいの可能性を示す痕跡を確認, 10月 25, 2025にアクセス、 https://s.netsecurity.ne.jp/article/2025/10/07/53761.html
日経クロステック(xTECH)「アサヒGHDのランサム被害で犯行声明か、『Qilin』が個人情報などの窃取を主張」にて弊社代表三輪のコメントが取り上げられました | S&J株式会社, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.sandj.co.jp/news/20251009/
ハッカー集団「Qilin(キリン)」が犯行声明 アサヒGへのサイバー攻撃 “従業員の個人情報や会社の内部資料など9300のファイル盗んだ”と主張|TBS NEWS DIG - YouTube, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.youtube.com/watch?v=2WWMrqF3ZX8
アサヒ グループホールディングスへのサイバー攻撃のまとめ|セキュリティニュース, 10月 25, 2025にアクセス、 https://rocket-boys.co.jp/security-measures-lab/asahi-group-holdings-cyberattack-halts-production-and-impacts-group-companies/
【影響は】アサヒグループHDへのサイバー攻撃全面復旧のめど立たず…ハッカー集団が盗んだ内部資料9300以上とも【サン!シャインニュース】 - YouTube, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.youtube.com/watch?v=PrTwCxMSuLc
アサヒビールで大規模サイバー攻撃発生、全社システム障害により業務停止など深刻な影響が生じる事態に | 株式会社一創, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.issoh.co.jp/column/details/9220/
アサヒビール商品出荷状況について, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahibeer.co.jp/info/20251006.html
アサヒ ビール、全6工場で製造再開-サイバー攻撃後一部作業は手作業で出荷, 10月 25, 2025にアクセス、 https://rocket-boys.co.jp/security-measures-lab/asahi-beer-resumes-production-at-all-six-plants-after-cyberattack-some-shipments-handled-manually/
サイバー攻撃によるシステム障害発生に伴う 2025年12月期第3四半期決算短信の開示が四半期末後 45 日を超えることに関するお知らせ - アサヒグループホールディングス, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahigroup-holdings.com/newsroom/detail/20251014-0101.html
アサヒ攻撃で露呈したDXの落とし穴|2025年上半期116件のランサムウェア、KADOKAWA・トヨタなどから学ぶ対策 - innovaTopia, 10月 25, 2025にアクセス、 https://innovatopia.jp/cyber-security/cyber-security-news/68087/
アサヒビールに学ぶ 3か月止まる企業システムがもたらす真の経営リスク - note, 10月 25, 2025にアクセス、 https://note.com/moatbasket/n/nc5b24131c6a2
NHK ニュース7「アサヒグループHD 工場再開もシステム復旧めど立たず 影響拡大」にて弊社代表三輪がコメントいたしました | S&J株式会社, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.sandj.co.jp/news/20251010/
【速報解説】アサヒGHD攻撃で明らかになったDXの「致命的盲点」 | ITで経営課題を解決するなら, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.it-workdesign.jp/20251003_asahihd/
アサヒ グループホールディングスのサイバー攻撃の影響がお歳暮ビールに波及-サントリー・サッポロが一部販売を休止、アサヒは「スーパードライ」3商品に限定, 10月 25, 2025にアクセス、 https://rocket-boys.co.jp/security-measures-lab/asahi-cyberattack-impacts-year-end-beer-gift-sales-suntory-and-sapporo-halt-some-products-asahi/
アサヒもアスクルも無印良品も…なぜサイバー攻撃が増えたのか、IT効率化の「大きな弊害」とは, 10月 25, 2025にアクセス、 https://diamond.jp/articles/-/375159
アサヒの飲料やビールに“異変” サイバー攻撃で広がる品薄の波(1/2 ページ) - ITmedia, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2510/04/news026.html
ベビーフードやお歳暮も”品切れ不安”…アサヒGシステム障害の影響広がる 居酒屋ではビール発注制限に困惑と懸念も, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.fnn.jp/articles/-/942169?display=full
アサヒグループHD 「個人情報流出の可能性」と発表 決算発表の延期も明らかに, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.qab.co.jp/quebee/video/000459677/
アサヒビール全6工場稼働・一部出荷再開および新商品発売延期のお知らせ, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahibeer.co.jp/news/2025/1006.html
アサヒ、サイバー攻撃で受注・出荷停止――ランサムウェアが狙う日本企業の脆弱性【続報】, 10月 25, 2025にアクセス、 https://innovatopia.jp/cyber-security/cyber-security-news/68010/
アサヒグループのDX:「DXは経営改革そのもの」で戦略見直し。グローカル対応のデータ基盤を構築中 | NEXT DX LEADER, 10月 25, 2025にアクセス、 https://news.careerconnection.jp/dx/6w08fd-zos4/
「中長期経営方針 DX戦略」 - アサヒグループホールディングス, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahigroup-holdings.com/pdf/ir/event/kessan/2023_0630_2.pdf
DXをビジネストランスフォーメーション(BX)と捉えた経営改革が高評価, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahigroup-holdings.com/newsroom/detail/20230602-0102.html
日本事業の戦略 - アサヒグループホールディングス, 10月 25, 2025にアクセス、 https://www.asahigroup-holdings.com/pdf/ir/event/kessan/2025_0311_1.pdf
アサヒGHDにサイバー攻撃、国内の受注・出荷業務がストップ - LOGI-BIZ online, 10月 25, 2025にアクセス、 https://online.logi-biz.com/132740/
アサヒビール、サイバー攻撃で受注・出荷停止――ランサムウェアが狙う日本企業 - innovaTopia, 10月 25, 2025にアクセス、 https://innovatopia.jp/cyber-security/cyber-security-news/67511/
アサヒグループ サイバー攻撃 2025:食品・飲料業界への影響と企業の4つの学び, 10月 25, 2025にアクセス、 https://vintage-sg.com/2025/10/03/post-1776/
アサヒビールに見るサイバー危機:システム障害が問いかける、DX時代のセキュリティとBCPの重要性 - note, 10月 25, 2025にアクセス、 https://note.com/dx_reskilling/n/n4ac0075a4a00

